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加納の歴史年表

加納の歴史年表

加納周辺の歴史

vgifusihan01岐阜師範学校

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今沢町かいわい

旧大垣城内から県庁近くの今泉に移った岐阜師範学校は明治32年、加納城郭内に移り、昭和9年、長良の新校舎へ移るまで35年間、この地にあった(今泉の跡地には県物産館が建つ)。
写真は加納時代の校舎で、明治40年ごろのものである。木造2階建て寄棟造りで、中央車寄せが破風付きのバルコニーを持っていた。
美江寺観音の参道と今沢町との交差点北西角に明治23年、笹土居町から岐阜郵便電信局が移ってきた。濃尾震災で大破したが、何とか元どおりに復旧され、対象3年、神田町1(現市南庁舎)に望楼付き木造2階建てとなって移転するまでこの地にあった。
写真は明治末期の郵便電信局で、手前の道路が今沢町筋、左が美江寺観音への参道。

vgifudentou03岐阜電灯会社

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松並木が美しかった街道

桑畑続きの今川町に、明治27年岐阜電灯会社が設立された。石炭を燃料にした火力発電で、設立当時の需要灯数はわずか492灯だった。明治末期には揖斐川などに水利権を得て、水力発電に切り替えた。写真は明治末期のモダンな本社屋。
従業員の制服は社名入りのハッピにモモ引き、帽子といったもので、当時、女の子にもてた。
岐阜ー名古屋を結ぶ名古屋街道は、岐阜にとり陸の動脈であった。道は御園町から加納の東を笠松、一宮を経て名古屋に至る。将軍家献上のアユずしがこの道を走ったところから「お鮨街道」とも呼ばれた。写真は対象のころの名古屋街道下川手付近。この美しい松並木も今はない。茶所からこの辺まで八丁畷(なわて)と呼ばれ、昔は追いはぎが出没したという。現在、畷(なわて)町の町名が残っている。

vnyuugyu05松並市内に乳牛が112頭

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耕地ばかりの金園町筋

明治14年、乳牛が県下に5頭しかなかったが、同34年には計565頭を数えた。うち岐阜市の112頭が最も多く、大垣を含めた安八郡の50頭がこれに次いだ。同38年ごろになると、岐阜では4業者で158頭の乳牛を飼っていた。牛乳は当時、薬として、また乳児の母乳代わりに飲まれた。写真は、昭和初年、忠節にあった進乳館牧場坂口牛乳舎。明治30年代には同所で開業していた。 明治40年ごろまでは東への動脈といえば、飛騨街道であった。現在の金園町一帯は才勝(さいかち)と呼ばれ、道の両側は耕地ばかり。瑞竜寺山が南へ突き出す二軒屋(金園町八あたり)には、茶店と数軒の農家しかなかった。
やがて美濃町行の電車が殿町からここへ出て来るようになり、市の繁栄とともに自動車関係業者が集中した。写真は昭和5年ごろの二軒屋。

vmizuba07日照りにも悩む水場地帯

 

vdenen08田園風景の旧城内

水場地帯での生活は、水との闘いであった。出水時ばかりでなく、日照りの水不足でもそうだった。上流から流される灌漑用水量に限度があったためである。
農家の人々は日照りが続くと雨乞いをしたり、アブやカに悩まされながら徹夜で水車を踏み、また釣り桶(かえ桶)などで田んぼに水を汲み上げた。写真は昭和9年、木田地区の水車。
広々とした田園が続く。これは加納丸ノ内、南市民会館あたりから東を眺めた昭和15年の風景である。今、このあたりには、民家や木材関係企業が軒を並べ当時の風景は想像もできない。 写真中央は加納天満宮の神田での、お田植祭のありさまである。永く中絶していたのを昭和5年に復活した。現在は行われていない。

vnaginatabori09埋め立てられた長刀堀

 

vsimizugawa10国鉄岐阜駅あたり清水川

長刀堀は、加納城の西を南北に延びる堀で、水深も深かった。そのため一時期、長良川から生活物資を積んだ船が出入りしたほどだった。
清水がわきハリヨ等もすむきれいな水だったが、傘製造が盛んになると傘紙の染色などが行われ、にごってきた。現在では埋め立てられ、町名にその名残りを伝えているのみである。写真は堀の面影を残す明治末期の様子。
国鉄岐阜駅あたりに、以前きれいな泉が噴き出しており、それが集まって清水川となった。この泉を利用して「くずまんじゅう」や豆腐が冷やされ、名物となっていた。
長刀掘同様、傘の製造や家庭・工場の汚水などにより水は汚れた。写真は明治末年の清水川。中央の建物は加納南広江の水薬師。子供の泳いでいるのが印象的である。

vmikosi11造りミコシと子供ミコシ

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加納天満宮のお田植踊り

 祭に繰り出される本ミコシは豪荘であるが、華やかさ和やかさに欠ける。それを補うのが造りミコシや子供ミコシで、岐阜の場合、その歴史は古い。
明治39年の岐阜まつりの時、日露戦争の戦勝祝いに造りミコシが出た。子供ミコシは昭和初年から登場しているが、各町内から出るようになったのは戦後。写真は本郷町赤口神社の本ミコシと、子供ミコシで、昭和17年のもの。
加納天満宮では、戦前まで7月1日、お田植祭の神事が行われた。まず境内で乙女ら24人が古式によるお田植踊りを奉納、この後行列をつくり、丸の内の神田に出かけた。
写真は昭和13年ごろの奉納のもよう。秋11月1日には、収穫祭である抜穂式が行われた。なお例祭は現在、岐阜祭に合わせて4月5日に行う。昔は多くの山車があったが戦災などで焼失、現在1台だけとなった。

中山道加納宿 名所旧跡案内地図

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